経験し得ないものを経験することについて(5)

多肉植物

(つづき)
 芸術(「文学」)とは、「正義の理念」によって「応答」を試みる、或る超出の運動に対して与えられる名である。第三のキーワードである「領域の変形」とは、この超出する(「送り届ける」)運動の謂である。デリダは、芸術(「文学」)を、或るパラドキシカルな運動の場として捉える。だが、このパラドキシカルな運動における、「正義の理念」とは何か、超出の運動とはどのようなものなのか?
 合法性と倫理的正しさとの違いは何か。簡単に言って、合法性と倫理的正しさとの違いは、‘正しさ’という語の意味が位置づけられるところの階層の違いである。正義を主張する(立法する)言明が、つねに、『「Xは正義にかなっている」(a)という文は正義にかなっている。(A)』という形をとらざるを得ない以上、正義の言明には二つの異なる時間があることになる。このとき、これら二つの異なる時間における「正しさ」の交換にあたって、二つの次元が生じる。合法性と倫理的正しさとの違いは、この二つの次元の区別に対応している。二つの次元の一方は、二つの時間(a、A)いずれもが帰されるところの、「執行可能性」としての、力としての「反復(覆)可能性」(合法性)の次元であり、他方は、このa-Aという複数の系列(複数の時間)に属する諸記述の間において、それら諸系列の対応(応答)が生み出すところの、‘正しい’交換の‘可能性’(倫理的正しさ)という次元である。つまり、「法を法たらしめるもの」としての、‘現前することの不可能性という可能性’の(明文化され得ない)次元である。「正義」(「正義の理念」)の価値とは、交換‘可能性’であるがゆえに、それは不確定性の意味において「決定不可能」なのであり、論理的に言って、‘正しさ’そのものが現前することはない。「正義の理念」については以上である。(このことは、経験的にはありふれたことでもまたあり得る。たとえば、翻訳者は自分が翻訳するある文の‘意味’や可能なコンテクストの全てを理解して翻訳しているわけではない。)だが、そうであるならば、にもかかわらず一体なぜ、どのようにして、決して現前することのない「正義」が求められることになるのだろうか?
 「反復(覆)可能性」としての法は、定義上、根源的有限性の内にある。だが、自らの「反復(覆)可能性」という力能それ自体によって、法は自らの根源的有限性をはみ出ようとする。言い換えれば、法はその遍在性(「引用的接ぎ木可能性」)によって、常に既に、さまざまに可能なコンテクストに開かれている。たとえば、私の発したり書いたりした言葉が、その目的・指向対象を離れ、‘それ’自身であるにも関わらず他者のもの(別のもの)に見えるという可能性である。これは、「反復(覆)可能性」の正しさ(「テロス」)にとっては、自らが「不正義」となり得る可能性である。(「不正義」とは、自己の中の他者、異なるコンテクストにおける反復(覆)、同形意義、偶然、‘過失’や‘誤認’などの謂である。)この超出の運動は、同時に、他者の言葉をあたかも自分が発したものであるかのように受け取ることの可能性でもある。つまり、「反復(覆)可能性」の正しさにおいて「不正義」の可能性があり、そうした不正義の可能性こそが、「正義の可能性」を準備するのである。ゆえに、‘それ’が法(「ねばならない」)であるならば、‘それ’は自らに起因すると同時に他者にも起因する「不正義」に対し、「正義の可能性」において「応答」しなければならない。以上が、「正義」が求められることの必然性ないし不可避性である。
 整理しておこう。第一のキーワードであった「枠」(「表題」)は、‘作品’の発生において、まずは‘それ’を我々の眼前に、現在に、現在として、提示する働きをするものであった。だが、この働きは、未だ‘作品’の中に見るべき読むべき何かがあることを示すものではない。したがって、‘作品’の発生においては、「指向対象なき指向対象性」(「読解可能性」、「反復(覆)可能性」)が必要とされる。ここで、「指向対象なき指向対象性」は、しかしながら、それ自体では己の「正しさ」を示すことができず、そこに「正しさ」を与えるためにはつねに他者の視点に拠るほかないものであった。たとえば、「私は尊敬の念によって行為している」という文の‘正しさ’は、‘私は嘘をつかない’という文の‘正しさ’同様、文それ自身によっては決定不可能である。言い換えれば、それが誰にとっての「尊敬」であるのか(‘私’とは誰であるのか)が、論理的に言って決定不可能である。したがって、その‘正しさ’を言うためにはコンテクストの〈限定=同定〉を、外部の視点による支えを必要とする。‘作品’の、或るジャンルへの帰属が問題であるとき、この〈限定=同定〉は、つねに「正統性」や「真正性」といった「こちら側」の価値の優位に対する無批判性という不正義となるだろう。*1
 だが、問題が合法性と倫理との調和であり、「力と正義を共に置くこと」であるとしても、正義は「反復(覆)可能性」の外部にはないというのが、デリダの論説における一貫した主張である。「決定不可能性」の試練という「アポリア」において、「決断」せねばならないし、法に「反復(覆)可能性」としての力を与えるのでなければならない。つまり、‘作品’は‘『薮の中』’であってはならないし、‘想像図(完成予想図)’に留まってもならない、ということである。ゆえに、第三のキーワードであった「領域の変形」が、‘作品’に、‘作品’として要請されることになる。さもなくば、「現前することの不可能性としての可能性」もなく、事実的現存の彼方である「残存(余生)survive」へと生をもたらすような「正義」もない。
 「残存」によって我々は応答せよと、正しく応答せよと命じられるのであり、一切の「生き生きとした現在の自己同一性」を脱臼させるこうした「残存」があるとき、なんらかの〈霊=精神〉が、「幽霊」があることになるだろう。デリダに拠れば、この意味において、「幽霊」とは私を見つめるもの(「眉庇効果」)なのであり、私の自由、私の責任を「相続」の名のもとに問いただす。(だからこそ、「それはかつてあった」と言うだけでは充分ではないのであり、私一人が、あるいは‘私たち’のみが取り憑かれることが可能であるような「幽霊」が問題となるわけでもないのである。)
 これで、とりあえず一通りデリダの論説を概説したことにさせていただきたい。以上の概説において、現在のところ、私はその論理のほとんどについて、相続こそすれ、破壊すべきではない価値を認めている。だが、最後に、デリダのとりわけ芸術論についての、若干の疑問を述べておきたい。(つづく)


画像リンク先 今朝のベランダさんhttp://d.hatena.ne.jp/miyachika/

*1:‘ホンモノの作家’への過信とは、業界なり国家なりの共同体(「此岸」)への過信である。人が読解の主観性に開き直るための根拠は、人がこうした共同体に徹頭徹尾包摂されることに基づいて与えられている、ということである。ロザリンド・クラウスが指標論において依拠した論理もまた、彼女はそうした論理こそを敵と定めたのではあるが、同型であることは、断るまでもあるまい。