経験し得ないものを経験することについて(4)

(つづき)
 第三のキーワードである「領域の変形」は、第二のキーワードであった「指向なき指向対象性」と密接な関係にあり、この第三のキーワードを考慮に入れないならば、デリダが分析する「指向なき指向対象性」の働きについての理解は不充分なものとなるだろう。ここで、それらの連携を見てゆこう。
 既に概説してきたところに拠れば、「指向対象なき指向対象性」とは「反復(覆)可能性」であり、「枠」によってその「指向対象性の或る本質的構造」であるところの目的の不在を露呈し、無限のコンテクスト(遍在性)を得るのであった。ところで、デリダに拠れば、これだけでは‘作品’が芸術(デリダの文脈においては「文学」)となるには充分ではない。デリダは、「文学が文学そのものであったなら、もはや文学ではないだろう。」と言う。ここで‘文学そのものであるような文学’として批判的に触れられている「文学」とは、或る共同体の「法/権利」を理解しない者が存在せざるを得ないような判断(「裁判」)に基づく「文学」および「判断」そのもの、である。つまり、‘文学そのものであるような文学’とは不正義である、ということだ。不正義であるがゆえに、‘それ’は芸術(「文学」)ではないのである。
 芸術(「文学」)が立法行為であること、すなわち芸術(「文学」)はつねに「正義」を扱うものであるということ、それが『「先入見」----法の前に----』から読み取ることのできる、デリダによる文学論の大前提である。なるほど、「文学」のみならず、絵画であれ音楽であれ(そしておそらくは何であれ)、自らに‘こうでなければならない’という法を立て、‘こうでなければならない’という法に従う。さもなくば、‘それ’は読まれることすらないだろう。(「正義」については後に再び検討を加えることにして、まずはデリダの論説を理解することを優先し、話を先に進める。)ところで、正義を主張する言説それ自体は、或る行為遂行性(「反復(覆)可能性」)においてしか現れ得ない--「反復(覆)可能性」なしには力(「執行可能性」)を持ち得ない--のである以上、こうした「反復(覆)可能性」の行為それ自体によって、当の言説はその根源的有限性(「枠」・「境界」)に起因する解釈の暴力を引きずらざるを得ないことになるだろう。「枠」と「反復(覆)可能性」だけでは、それが正しく(無矛盾に)成立しているのであるならば、その自らの根源的有限性についての判断をどうにも表明し得ない。(そうである限り、解釈の暴力に抗することはできない。)常識的な言い方を試みるなら、‘こうでなければならない’という作品(法)を前にしたとき、そうである限り、その作品(法)に対する批判も正当化も当の作品(法)自体からは出てきようがない、ということである。つまり、なぜ‘こうでなければならない’のかを証明することは、作品(法)が単一の形式である限り、それ自体によっては不可能である、ということだ。*1デリダは正しく次のように書いている。「権威の起源、掟を基礎づける作用または掟の基礎になるもの、掟を定立する作用、の最後の拠り所になるのは、定義によって自分自身しかないのであるから、これら自体は基礎を持たない暴力である。これは、それら自体が、「非合法」または「正統でない」の意味で正義にかなっていないということを意味しない。それらは、それらが基礎付けをなす瞬間には、合法的でも非合法的でもない。それらは、基礎付けされたものと基礎付けされなかったものとの対立や、基礎付け主義かそれとも反基礎付け主義かの対立を越えている。」*2
 こうした認識から、だがしかし一方において、デリダが「ある種の悲観主義的・相対主義的・経験主義的懐疑主義」と呼ぶ解釈が生まれる。簡単に述べれば、正義とはそれもまたひとつの固有言語に過ぎず、言い換えれば、現実的な執行力を持ったものだけが正義とされているのに過ぎないのである以上、正義は存在しないという解釈である。‘勝てば官軍、負ければ賊軍’。この解釈は、正しさとは須くローカルな合法性(慣習)でしかない、という主張として言い換えることができる。法とは、みんながそうしているからという理由によってのみ、従うべきものとなる。(ここでは見るべき読むべきナニモノカの正当性は、主体の関心から発した--主体の設定される「こちら側」を目的とした--ものにならざるを得ない。)これが、いわゆる「ポストモダニズム」として見なされてきた言説についての典型的な解釈であり、デリダが自らの著作に対して為される飽きるほどくり返される誤解と呼ぶところの解釈である。(言うまでもなく、こうした解釈はある特定の時代であるとか革命的状況の特異性であるとかを証言するものではまったくない。いつの時代にも見られる論理である。なるほど、それを数学的に証明するためにはゲーデルを待たねばならなかったとしても。)
 だが、同じ認識から出発しながら、他方、デリダに拠れば、ゆえにここにこそ、合法性に還元しきれない倫理にとっての「チャンス」があり、正義の可能性があり、希望がある、ということになる。芸術(「文学」)とは、運動である、ということだ。詳しく検討してゆこう。(つづく)

*1:これが‘自己言及のパラドックス’であることは明白だが、ここで‘自己言及のパラドックス’ないし‘不完全性定理’を解説することで行く手を遮られている暇はないので、その詳しい説明は割愛する。『法の力』というテクストの中で、デリダは合法性と倫理との違いを説明するための論理として、あからさまに数学(ゲーデル不完全性定理)を援用している。「翻訳している」、とデリダなら言うのかも知れない。--というのも、倫理あるいは「正義」という語は、理論上のモデルとなったゲーデル不完全性定理に直接書き込まれているわけではない哲学に固有の言語であるから。--たとえば、デリダは次のように書いている。「次のように言うことは果たして可能だろうか。すなわち、ある行為が、単に合法的であるばかりでなく、正義にかなってもいる、と。これこれの人は正義にかなっている、ある決断は正義にかなっている、と。次のように言うことは果たして可能だろうか。すなわち、自分は正義にかなっていると当の私が知っている、と。私が明らかにしたいと思うのは、このように請け合うことは、曇りのない良心と神秘化という形をとる以外には本質的に不可能であるということである。」つまり、正義を主張する(立法する)言明は、つねに、『「Xは正義にかなっている」という文は正義にかなっている。』という形をとらざるを得ない。ついでに触れておけば、対象とそれについての記述という落差のみによってはパラドックスは起きない。たとえ、それらの行為をともに同一の人物が、同一の対象について為す場合においても、である。「私は東氏のデリダ論を信じていない」という文は、仮に発話者である「私」が東氏のデリダ論を信じていなかったとしても、それ自体では自己言及文ではない。単に、形式的に無矛盾な文である。ゲーデルについては、以下のものを参照されたい。 『ゲーデルエッシャー、バッハ』 ダグラス・R・ホフスタッター著 野崎昭弘/はやしはじめ/柳瀬尚紀訳 白揚社  および、『不完全性定理』 野崎昭弘著 ちくま学芸文庫 

*2:『法の力』 堅田研一訳 法政大学出版局