経験し得ないものを経験することについて(3)

(つづき)
 ここでこれから提示しようとしている問題は、あらゆる語りおよび、あらゆる模倣や参照などを受け入れる一つの場としての‘それ’の変更不可能(書き換え不可能)な不可侵性を、どのようなものとして考えるのかという検討から生じる。よってまずは、既に採り上げた『先入見』----法の前に----』における、「枠」(「境界」)についての理論を改めて振り返りつつ、問題をより精確なものにしておく必要がある。「枠」(「境界」)を巡る諸考察においてデリダが賭けていたもの・込めていたものを乱暴に破壊してしまわぬよう心がけねばならないし、その上で、クラウスを読みつつデリダを参照する際に、当面の議論にとっての必要を感じなかったがゆえにあえて触れなかったデリダに対する疑問を、ここで改めて提示する必要がある。
 それが我々にも無関係ではない或るコンテクストにおける判断の手続きを対象とする限りで、『先入見』----法の前に----』におけるデリダの分析は狭義の文学のみならず他のジャンルに対しても適用できる。‘或るコンテクスト’とは、大雑把に言えば、翻訳権などの発生を遵守するための法律が存在すること(作品の同一性)、著作者の権限を守るための法律が存在すること(作者の同一性)、そして一つのテクストが或る特定のジャンルに帰属すること(ジャンルの同一性)、などである。このコンテクストにおいて、デリダが問題とするのは主にテクストの帰属に関わる判断についてであり、‘作品’の発生と実定的な法との不可分な関係を考察することである。この問題によってデリダの論考が導いて行く先は、いつものように「アポリア」の問題系である。「アポリア」についてはすぐ後に触れるのでここでは簡単に述べておけば、「アポリア」は、「批評家」や「大学人」、「古文書保管人」、「図書館員」(学芸員)、「法律家」、「作家」といった「門番」たちに対し、「作品」とは考えられないようなものを「作品」として考えることを命じる。責任ある判断、決定というものが可能であるとしたら、そのとき人は、未だ義務ではないような義務に従い、何ものにも負うことのない「ねばならない」に従うのでなくてはならない、それが「アポリア」である。あらゆる決定には「決定し得ないもの」が先立つのである。(「アポリア」は、ナショナリズムを肯定することの内にある「範例主義」という論理への批判である。)「アポリア」については後に再び戻ってくることにして、『先入見』----法の前に----』の中で展開されるデリダの論説を見てみよう。デリダは、或るテクストが「文学」に帰属するという判断を許すものとは何かという問いを立て、三つのキーワードによって答える。すなわち、「枠」・「指向対象なき指向対象性」(「特異な行為遂行性」)・「領域の変形」の三つである。これら三つのキーワードはいずれも「枠」(「境界」)を巡って展開されるものであるが、それぞれその関わり方は異なっている。その違い、およびそれらの連携(フローチャート)を見てゆこう。
 まずはそこで第一番目に言及されている「枠」について、見てゆくことにしよう。デリダによれば、作品の単一性(変更不可能な不可侵性)は「枠組み」・「表題」といった外在的かつ空虚な要素(近代以降においては実定的な法に支えられた)を必要とせざるを得ない。(ここで言う「枠組み」ないし「枠」とは、境界であり、起源からの・目的からの切断であり、輪郭による囲い込みである。)このような「枠」は、その内部に直接関わることはない。なるほど、もし「枠」(「境界」)による切断がマーク(反覆可能性)の条件ではないとするなら、我々は‘未完成’の作品を作品として扱うことができないだろうし、あるいはまた、いくつかの独立した‘作品’から成る作品(たとえば交響曲、長編詩、二連画、群像や風景としての彫刻など)に対し、そこに一つの作品としての諸関係、運動を認めることができなくなるだろう。同じ内容、同じ文字列あるいは同じ音列などが複数の作品に認められるとき、あるいは一つの‘作品’が他の‘作品’に引用されるとき、それらが帰属する場をそれぞれ異なるものとして同定することもできなくなるだろう。定まった形態を持たず、常に変形し続ける‘作品’をそれとして同定しうるのもまた、「枠」ないし「表題」あるがゆえにである。したがって、‘作品’の同一性にとっては、あらゆる語りおよび、あらゆる模倣や参照などを受け入れる一つの場としての‘それ’の変更不可能(書き換え不可能)な不可侵性にとっては、「枠」(「境界」)による切断が不可欠であるだろう。「枠」はその内部に囲い込まれたものに対し、いずれにせよ常に外在的であり、「枠」そのものが同じ「枠」の内部に現前することはない。「枠」とは、絶対的な隔たりであり、言い換えれば現存在にとっての「死」(「Ableben」)のようなものである。別の場所においてデリダが書いている言葉をもじって言えば、「枠」とは不可能な同時性の名であり、すなわち、人生は常に短かった(「Ableben」)*1ということになる。これが他の二つのキーワードから「枠」を区別するその特異な機能である。ところで、デリダに拠れば、この「枠」は、第二のキーワードである「指向対象なき指向対象性」(「特異な行為遂行性」)と連携している。(だが、先に示したような理由によって、決して完全に重なり合うことはない。)では、どのような連携であるのか、次にその点を見てゆくことにする。
 ‘作品’の単一性(境界)を同定する「枠」や「表題」のみでは、読むべき見るべき何ものをも得られはしない。したがって、二番目のキーワードである「指向対象なき指向対象性」(「特異な行為遂行性」)が、‘作品’の出現にとって必要である。「指向対象なき指向対象性」とは、「反復(覆)可能性」(「読解可能性」)のことである。つまり、たとえ人が‘それ’に気づかなくとも、誰も‘それ’をマークしなくとも、‘それ’がマーク可能な(注目すべき)ものであり得るための条件のことである。「反復(覆)可能性」とは「アナクロニック」なものであって、それを観察しているところの現在に従属しない。あらゆるマークは、‘それ’がマークであり得るためには、経験的に規定されたあらゆる受け手一般の根本的不在において機能しうるのでなければならない。すなわち、その「引用的接ぎ木可能性」において、様々なコンテクストを生み出し得るという可能性において、マークは規範(命令)を感性抜きに反復する機械的装置としての自動性や技術でなければならない。ところで、「反復(覆)可能性」には、本質的に起源との切断ということが含まれている。(「反復(覆)可能性」ということ自体が、既に自と他という二つのものを含んでいることを前提としている。)デリダが他の場所*2で書いていることを引用すれば、「切断は、マークがあるや否やただちに、さっさと発生する。しかも切断は否定的なものではなく、「積極的に」マークの出現を条件付けるのだ。切断は反覆可能性そのもの、マークの〈再-マーク可能なる所以=注目すべき点〉なのであり、反覆されるものの〈再-〉と反覆するものの〈再-〉との間を通り、反覆を貫き、変形している。」あるいはまた、引き続き『有限責任会社abc・・・』から引用すれば、「そこで疑問に付されているのは、意図=志向あるいは志向性ではなく、それらのテロスである。テロスとはすなわち、意図=志向あるいは志向性の運動を、それらの成就の、充実の、顕在的かつ現前的充実性の、つまり自己に対して現前し、自己に対して同一である充実性の可能性を方向付けかつ組織するものである。」(付け加えれば、だからこそ、運動が、意味が、「残存」が可能になるのである。)このとき、「反復(覆)可能性」における切断は、「」で括りうる可能性は、デタラメではあり得ない。(それが何に依拠することでデタラメであり得ないのかということについての問題は残るとしても。)これが、他のキーワードから「指向対象なき指向対象性」を区別する特異な機能である。
 だが、こうした指向対象の不在という構造が「反復(覆)可能性」にとって本質的だとしても、‘実際に’我々が「マーク」を使用する段においては、必ずしもそうした本質に基づいて我々は行為しているわけではない。‘私’とか‘オレ’が、今日の私と去年の私を共に指すのでなければ、日常生活を営むことはできない。ここで、第一のキーワードであった「枠」が、「指向対象性の或る本質的構造を露呈させる一方で、指向対象の「正常な」システムに一種の混乱を導入する」という役割を担う。つまり「枠」が、切断によってコンテクストの決定不可能性を与え、‘作品’としての遍在性を与えるのである。(この点が、「枠」による切断がコンテクストの決定可能性を与えると考えるハイデガーの論説と、デリダの論説との間の決定的な違いである。だが、それでもやはり「枠」についての根拠が不在であることについての問いは残る。)たとえば、‘「この七つの文字」’と書かれた文があったとしても、「枠」による切断があるとき、それは常にコンテクストの決定不可能性を持ち、「嘘の可能性」をはらむことになる。‘「この七つの文字」’が、今目の前にあるだろうその文字群を指すという保証さえも、そこにはない。(「オレオレ詐欺の発生である」というのは、私ではない某氏のネタである。「枠」の遠隔性を上手く捉えたネタであるので、笑えることも評価した上で、ここに引いておく。)
 以上、冒頭で紹介した三つのキーワードの内、二つを概説した。最後に、これら二つのキーワードが、第三のキーワードである「領域の変形」とどのように連携するのかを見てゆこう。デリダに拠れば、「枠」(「表題」)、「指向的構造」が作品そのものの出現に必要であるとしても、これだけではまだ充分ではない。では、何が充分ではないと言うのだろうか? 諸ジャンルにおいて相続されるべき価値(重要な規範に従うこと)にとって、というのがその理由の一つである。出現したテクストは、「強力な門番たち」に守られた諸々のテクスト(作品)の前に出頭しなければならない。ゆえに、取って代わろうとするものに対し、交渉の必要が生じ、議論の必要が生じることになる。だが、ただし、デリダにとって重要であるのは、範例(歴史)への参照を絶対的な正当性(正統性)とすること無しに、という点である。なぜなら、(デリダはそういう書き方をしていないようだが意訳すれば)芸術のための芸術は、言い換えれば、ある特定の共同体や個人主体の利害関心による優先的価値付けに基づくような芸術は、プログラムの遵守でしかないようなプログラムは、芸術ではないからである。これが、もう一つの理由である。ただし、デリダは芸術とは言わずに「文学」ないし「正義」と呼ぶのではあるが。(そしてこの差異が、これまた問題なのであるが。)これが三番目のキーワード、「領域の変形」の特異な機能である。既に前回少し触れているが、より詳しく見てゆこう。(つづく)

*1:私はドイツ語はできない。ここにAblebenと引いた理由は、ドイツ語のできる人およびハイデガーを読んでいる人が私の書くものを検証するだろうことを想定しつつ、この語の参照が私の書いたものの理解をより容易にしてくれるだろうと期待するがゆえにである。

*2:「有限会社abc・・・」『有限責任株式会社』所収 高橋哲哉/増田一夫/宮崎裕助訳 法政大学出版局