『試行と交換』ワークショップ 橋本聡

argfm2011-01-27

 横浜は日ノ出町にある『急な坂スタジオ』にて開催中のワークショップ、『試行と交換』*1に行ってきた。私が参加したのは橋本聡のワークショップである。
 橋本聡の多くのパフォーマンス・イベント*2同様、今回の「ワークショップ」でもまた作家は、事物や人々が或る特定の仕方で関係することを強いるようなシナリオを用意し、提示している。(ここで言う「シナリオ」とは筋書きの意味ではなく、何かが起きるために必要な諸要素・仕掛け・道具立てのことである。)ワークショップの会場となる多目的ホールに入る前に、参加者全員にA4サイズの紙が3枚ずつ配られる。作家から、ホール内では紙の上に足を置くこととし、そこから出てはならないとの指示が与えられる。さらに、ホール内では床に手をつくことも尻をつけることも許されない、とされる。(おかげで私は筋肉痛である。)作家、参加者、記録係はみな、紙を飛び石のように床に置き、そこに足を置くことで移動することになる。
 ホールに入るとすぐ、机の移動や棚の紙を取るなどの簡単な用事を、参加者の何人かが作家から言いつけられる。ちなみに私はホールの隅に置いてあった紙と鉛筆を取って作家に渡すよう頼まれ、従った。なんでもない作業が、当初の指示による運動の拘束があることで、ちょっとした達成感を伴う共同作業のように思えてくる。作家と参加者たちによってホールのほぼ中心部に、ヒト二人が席を並べられるくらいの長さの、一般的な会議室などでよく見かけるタイプの机が二つ、ぴったりとくっついて置かれ、その机の上に全員立って乗るよう指示される。机の上では互いの体が触れるか触れないかギリギリくらいの近さで、作家を含め全員が向かい合わせで立ち並ぶことになる。天井に手をつくことが許される。この状態で、今回の「ワークショップ」で参加者は何をすべきであるのかが、作家によって説明される。お分かりのように、互いが初対面である参加者たちにとってこの状況は、互いに親しみやすさを抱く契機でもあると同時に、距離が近すぎることから来る圧迫感・緊張感を抱かせもする。鑑賞者や参加者たちをダブルバインド状態に置くシナリオは、彼がこれまで行ってきたパフォーマンス・イベントに通底するものである。
 今回のワークショップで参加者たちに求められたことを簡単に言えば、予め作品を作品として保証してくれることのない場においても成立するような作品、あるいはジャンルに回収されない作品についてのネタ出しであり、絵などの作品の提出であり、あるいは、そうしたアートのあり方についての議論を示すことであった。作家が参加者たちに求めたこの指示は口頭でなされ、レジュメなどは一切ない。参加者たちはホールに散り散りになり、配られた数枚の白紙にネタや作品、論点を書き出すよう求められる。紙面構成についても考えるよう指示が追加される。作家は室内に点々と散らばって作業する参加者たちの間を縫って歩き、作品について、理論的問題について、議論してゆく。基本的には作家と参加者との一対一の対話であるが、参加者は室内の全員に声が聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで話すことを求められ、ときには突然議論への参加を呼びかけられたりもする。作家は参加者たちの議論をつなげたりつきあわせたりしながら会場内を移動し、ときおり手に持ったエンジンブロワーで床に転がした色とりどりの円筒形の糸巻きに強風を吹き付ける。エンジンブロワーの騒音によって離れた場所でなされる会話にも注意が促される一方、離れた場所にいる人の話し声はところどころかき消され聞きとりづらい。糸巻きはころころと転がって糸をのばし、床に線を描き出す。ここにもまた、応答するよう呼びかける声と、応答を拒否する声との間で、参加者はダブルバインドを感じることができる。ありがたくもないけれど。
 「ワークショップ」は3時間にわたって行われ、終了時に全員が再び机の上に集まって立つよう求められ、参加者それぞれによる‘総括’が求められた上で作家との議論がなされる。最後に、全員にA4サイズの紙が配られ、自分の顔をこれで覆ってなるべく上手に鉛筆でトレースするよう求められる。紙は回収され、混ぜ合わされた上でビニール袋に入れられて参加者たちに一つずつ配られる。誰の‘顔’が誰の手元に渡ったのかは分からない。ちなみに私が受け取った‘顔’は、誰のものなのか判別不能である。
 今回の「ワークショップ」とこれまでの橋本のパフォーマンス・イベントとの違いは、作家も参加者もゴールがどこにあるのかを知らず、また分からないということを前提としている点にある。また、一般的な体験型教室としてのワークショップとも異なる。この「ワークショップ」は参加者を鑑賞者や受講者として目的に据えているわけではなく、完結した作品でもなければ、確実な知ないし技術の伝達を目的とするわけでもない。ガイドラインを示すレジュメはなく、討議可能な対象としてのテクストもまたなく、誰がやっても同じ効果を引き出すことの期待できる反復可能な練習方法が示されるわけでもない。端的に言って、この「ワークショップ」を記述しようとするならば、参加者自身がその生成過程に含まれ、影響を与えていることに対して自覚的にならざるを得ない。従って、参加者全員の記述が同じになることはあり得ないだろう。とは言え、一方で、ホール内にいる全員に、誰もが反復可能であるような或るオーダーなりシナリオなりが常に課されてもいる。このように、今回の「ワークショップ」は作家が仕掛けたシナリオを経験するというだけではなく、議論のプロセスそのものとしてもあり、いわば会議でもある。つまり、これはパフォーマンス・イベントを装った会議のようでもあり、ワークショップを装ったアートのようでもある。あるいは、パフォーマンス・イベントの遺伝子を受け継いだ会議のようでもあり、ワークショップの遺伝子を受け継いだアートのようでもある。ゆえに、ここではワークショップあるいはパフォーマンス・イベントという語に「」を付けて語ることを余儀なくされるのである。むろん、ここで「」を付けるとは、引用符の中に書かれた語が、周知のものとされ得ないような贈与として扱われることを意味している。おそらく、橋本の狙いはここにあり、それは成功している、と私は考える。
 自己目的的な再生産の産物としてのワークショップあるいはパフォーマンス・イベントを問う営為としての、作家によって仕掛けられた「」付きの「パフォーマンス・イベント」あるいは「ワークショップ」を参加者である私は受け取った。いったい、「おみやげ」として配られた参加者たちの「顔」を私に受け取らせたのは何だったのか、私は参加者や作家の声を受け取ったのか、「おみやげ」とは何か、「」を付けるとは何かといった、私が受け取ったものについて、私が考えざるを得ないのは筋肉痛のせいばかりではおそらくない。無関心を決め込んだり忘却したりすることを咎めるような、受け取ったものについて考えざるを得ないようにさせる何かが、この「ワークショップ」にはあった(ような気がする)。

*1:http://wedance-offsite.blogspot.com/2010/11/blog-post.html 

*2: 詳しくは、橋本聡作品集『Wake up,Black,Bear 橋本聡』 高嶋晋一、印牧雅子 WORKBOOK発行 2007  を参照のこと。 WORKBOOK 連絡先workbookmailあっとgmail.com あっとを@に変換