篠崎英介 『Mowing-Devil』

argfm2010-12-23

 篠崎英介の個展『Mowing-Devil』*1へ行ってきた。なんだか聞き慣れない名詞が展覧会タイトルになっている。Wikipediaによると、「Mowing-Devil」とは17世紀にイギリスで発行された、ミステリーサークル(crop circle)に関する最も古い報告記録(チラシ)のタイトルであるようだ。当のチラシに書かれているのは、自分の農地の草刈りをするために使用人に金を払うのがいやで、代わりに悪魔に刈ってもらった地主の話だそうである。悪魔に刈ってもらった方が高くつくのではないかとか、悪魔はなんの比喩なのかとか、それはさておき、木版画で掲載されている草刈り後の農地の様がミステリーサークルそっくりである。今日ではミステリーサークルの“作り方”はよく知られているが、版画を見る限り悪魔もまたこのよく知られた手法で作っているようにも見える。草を刈る悪魔=Mowing-Devil。
 会場には作品が三つ展示されている。*2一つは壁に、二つは床に。壁に設置された作品はちょっと理由があるので後回しにして、床に設置された二作品について、主に『brick』について、見ていくことにする。


 レンガでできた作品『brick』は、不思議な感じを与える。『brick』の不思議な感じは、レンガを重ねて組んでいるにもかかわらず、なぜか全体がフニャフニャしているということにある。(写真だとこの感じが分かりづらいかも知れない。)一本一本はそれなりに重そうな木材で組まれた『squared timber』もまた、どことなしに、吹けば飛びそうな軽さの感じを与える。では、この不思議な感じを生み出すロジックとはどのようなものなのか? なぜ、この作品から受ける感じを不思議だと思うのか? 
 『brick』はレンガを積み上げてできている。それは間違いないが、しかし、重心のかかり方を見れば、単に積み上げてできているわけではないことが分かる。そのことが分かるように作品はできている。下からレンガを順々に積み重ねていっただけでは作れない。にもかかわらず、積み重ねただけで、レンガを支えたり接着したりする媒体(媒介)を伴うことなく、自立している。だから不思議な感じを覚える。
 塵も積もれば山となると言うけれど、一つ一つの塵はそれに先立つ塵を確実な足場としてただ積み重なる(支えきれない部分は振り落とされる)だけであり、塵が積み重なるプロセスにおいて、塵と山との間に構造上の変化はない。つまり、塵か山かは主観的なローカルな区別でしかない。(塵を見て山を予想したり予言したりすることもできる。)塵山は大きくとも小さくとも常に円錐を目指す、これもまた自然の必然に従った、その意味で自立的と言えなくもないが、しかし自立する----自ら立つ----構造とはそういうことではない。相対的によりエントロピーが小さいということではない。(たとえば水蒸気よりも氷のほうがエントロピーが小さい。が、これは塵山問題と同型である。)そうではなく、ある秩序をとって初めて自立-自律するという構造がある。たとえばエンジンの循環構造がそうであり、地球における水の循環構造がそうである。これらは〈AならばB、BならばC、CならばA〉といったように因果的出来事の連関が循環することで自立的な構造を成しているが、その部分、たとえば「AならばB」だけを取り上げて観察してもその全体を予想することはできない。すべてが組まれて初めて、一挙に、それとして現れ、自立することができるのである。先の塵山を放置生成型自立構造と呼ぶとするなら、こちらを発明型自律構造とでも呼ぶことができるだろう。『brick』はこちら、過去の生成プロセス(時間的順序および機能)の意味が、構造が成立するその瞬間において一挙に書き換えられ決定される発明型自律構造になっている。
 発明を発明として認めることができるためには、それがいかにして作られているかについての考察が不可欠である。(言いかえれば、作品や事物を手段としてではなく目的として扱う、という態度が必要である。)発明型自律構造は、放置生成型自立構造を排除しはしない、むしろ放置生成型を前提としているがゆえに、発明型自律構造の解析には困難が伴い、時間もかかる。超人間的な悪魔の存在を信じないリアリストにはそれが発明(=作品)だということさえ、気がつかれずに終わることもあるだろう。だが、ひとたびこの作品はいかにして決定されているのかと思いを巡らせてみるならば、観察によって、不思議な感覚へと導かれる。我々鑑賞者が不思議な感じを覚えるのは、作品が自立するための構造上の基点(支点)および機能的連関をすぐには読み取ることのできない、『brick』に見られるような、生成における意味(機能)の劇的な変換を目の当たりにすることによるものと、私は考える。我々鑑賞者は、我々が経験的に想像する放置生成型の自立構造と、作品独自の自立構造たる発明型自律構造との間の違いを見ているのであり、そこに不思議な感じを覚えるのである。(『squared timber』も作品の構造は違うけれども、同じことが言える。)


 最後に、なぜ壁に掛けられた『rubber tube』を後回しにしたかと言うと、と言うか、結局言及しないのだが、この作品だけは、私が展示会場で見たものと後に作者が来場者に宛てて送ってきてくれた会場写真に映っているものとが異なるからである。どちらが先でどちらが後なのかを、私は知らない。*3写真に写った作品は良いと思うが、実見していないため触れずにおく。

*1: 四谷アートストゥディウム ギャラリー・オブジェクティヴ・コレラティヴ http://correlative.org/exhibition/2010/maestro/shinozaki/info.html

*2:篠崎英介氏のflickr→  http://www.flickr.com/photos/eisuke_shinozaki/

*3:後に、作者がこの写真の方が後であると教えてくれた。