(つづき)*1 限られた空間の中にいかにしてより多くの多様な空間、多様な文脈をつなぎ止めることができるかという魅力的な主題は、おそらく、岡崎乾二郎という作家が継続的に取り組んでいるものの一つであるが、Blockhouse Sunagawaでは、これまで記述して…
造形作家岡崎乾二郎の手になる邸宅Blockhouse Sunagawaは楽しい建築だ。ここで私が「楽しい」と言うのは、この建築物が自らをこの建築物たらしめているその根拠、目的であるだろう諸感覚の充溢を指している。たとえば、導線、窓による視覚的風景の拡がり、各…
行きがかり上、簡単にフーコーについて書いておく。私はシロウトだから、ほとんど既知の事柄の確認のようなものでしかないが、それでも、いわゆる「フルボッコ」を多少は覚悟して書く。いずれ専門家が書いてくれるだろうより充実した議論に期待しつつ、しか…
私は以下でクレーについて、クレーの方法論は○○と混同されるべきではない、といった仕方で彼の方法論を理解しようとしているが、これは可能性を探究するための方便であって、クレー自身の制作においては、私が可能性と見なしたものと、混同されるべきではな…
全く別のことを書こうとしていたのだが、あまりにびっくりしたので、急遽、こちらについて書くことにした。ちなみに、以下で問題にする記事の存在を、私はkaichoo(黒瀬陽平)さんのツイッターで知った。*1ちょっと、言葉を失って唖然としているというのが、正…
チャーリー・カウフマン監督の映画『SYNECDOCHE, NEW YORK *1(邦題「脳内ニューヨーク」2009日本公開)』)(2008)について。超ネタバレですので、ご注意ください。 この映画には二つの異なる時間軸がある。一方は、演出家である主人公ケイデン(フィリッ…
(つづき) 『限界芸術論』に戻ろう。既に触れたように、普遍性の僭称を批判する目的において芸術の外部たる「限界芸術」の普遍性をこそ尊重し保護するのだという口実は、しかしながら、制度としての芸術業界なるものの積極的な(お節介な)介入を批判するこ…
(つづき) グーランに拠れば、先史芸術にあっては、それを作るためには言語が必要であるという理由から、芸術は言語活動とも区別され得ない。たとえば、頭という概念なしに頭部をそれとして分節し、描くことはできない。骨格という概念なしに骨格は描けない…
(つづき) 作品固有の次元とは何か。この問いに答えるために、私はここで芸術と非芸術との境界線を引き直すことを試みる。境界線を引くために参照されるテクストは、アンドレ・ルロワ・グーラン(1911〜1986)の『身振りと言葉』*1である。*2 『身振りと言葉…
(つづき) なるほど、『限界芸術論』の難点は、論議するにはあまりに脆弱であるような区別によって、自らの論を構築していることにある。すなわち、専門家の芸術および大衆の芸術に限界芸術を対置するという区別であり、限界芸術を「専門家」に対置される「…
(つづき) ドゥボールの理論に従うなら、自由*1は自由な労働や消費を生きる主体においてのみ生きられ得るものであって、制作物(作品)が自由を与えるということはない。鑑賞における解釈の自由は許されるのかも知れないが、‘忠実な’鑑賞において開示される…
(つづき) 簡単に言って、「思索の暴力」ないし資本のエコノミーに従属させられた文化・文明に対し、ハイデガーは資本主義(技術文明)に対抗する限りでの国家および民族共同体を擁護し、ドゥボールは資本主義(スペクタクル)に対抗する限りでの諸個人の自…
(つづき) 資本主義生産物に対する批判を芸術作品に適用することが、いったいどのようにして、どのような意味において、妥当なものとなるのか、それが未だ問題である。いったい、先に整理した区分において第二のものであった芸術の「スペクタクル」を批判す…
(つづき) 「スペクタクル」とは、ギー・ドゥボール(1931〜1994)の著書『スペクタクルの社会』*1において、資本主義経済や支配的階級層を批判するために用いられる概念である。こうした批判がなぜ必要とされるのか、その答えは、この書物においては「スペ…
(つづき) 「作品」とは、自らの本性において保護され守られるという自由のことであると、そう考えた或る哲学者について。 建てること、住まうことは、ハイデガーにとって「存在」の真理である。既に別の記事で確認したように、ハイデガーの「存在」が問題…
楳図かずおの漫画『夏の終わりに』(1969)*1にはどんな目的があるのか?この漫画は読者への励ましでもないし、怒りでもないし、美談でもない。泣けるわけでもない。そこにあからさまなメッセージと呼べるようなものはない。教訓ではないし、物語が事実に基づ…
大阪の大槻能楽堂にて、『大阪観世九皐会百周年特別公演』を鑑賞。曲目の一つは『鸚鵡小町』。私は語るほど深く能とつきあってきたわけではないから、深く触れることはできないが、素晴らしい舞台であったと思う。*1素人門外漢の興味から言わせてもらえるな…
・プロフィールの欄のメールアドレスを更新しました。 『すもも画報』のメルアドを通じて連絡をしてくださる方もいるので、一応。 ・ブックマークを更新しました。 私が高く評価する研究者・批評家・アーティストである平倉圭さんのブログですが、リンク先が…
(つづき) 問題は「世界」とは何か、あるいは、「世界」を「開示する」とはどういうことか、という点にある。一見、ハイデガーの論説を脱構築することは[論説の上では]簡単であるようにも見える。たとえば、「世界」を「開示」することを本性上の差異とす…
(つづき) 整理しておこう。ハイデガーによれば芸術と技術との差異は、その技術としての本性が開示されるか否かにあった。しかし、本性の開示が事物(技術)それ自体の差異ではなく、事物(技術)を見る主体の態度の違い(「存在を問う」か否かという違い)…
(つづき) 『技術論』で示される存在についての問いは、或るものを他から峻別するために起源としての他者を反復することを必要としない。事物(技術)の絶対的な出現を画する根源は、もはや事物(技術)自身しかないのであり、事物(技術)は事物(技術)で…
(つづき) 絶対的な差異の創出としての「根源」を反復すること、この試みに対し、それが「来るべき言語」であるか否かは、結局のところ、過去ばかりでなく未来にも開かれた様々なコンテクストが判断するはずである。*1この可能性なくして「現存在」も、「世…
(つづき) 「存在を問う」ことが「出来事」の条件であった。それは未だ条件に過ぎないとしても、だが「存在を問う」とはどういうことか、「存在を問う」ことはどのようにして可能なのだろうか?「存在」、「歴史」、「闘争」、「死」の連携を見てゆこう。「…
石は無世界的であり、動物はこと世界に関して貧しく、人間は世界形成的である(ないし形成された世界の住人である)。これは、ハイデガーによって人間(≒「現存在」)の本質を説くために立てられたテーゼである。この簡潔なテーゼに見られる区別は単なる質的…
引っ越してました。皆様、お元気でしたか? 早速ですが、お知らせがあります。 四谷アートストゥディウムの木原進さんから、以下のような、レクチャーシリーズについての告知のメールが届きました。面白そうなので(というかスゴそうなので・・・)、転載さ…
自分がやろうと思わなかったことをしてしまったということ、言おうと思わなかったことを言ってしまったということ、すなわち選ぼうと思わなかったものを選んでしまったということ、そういったことどもに対して、ではどのように振る舞うのかということは、そ…
6月半ばに引っ越しをします。他にも色々と忙しく、ブログを更新している時間がありません。ほら、この近況報告だって全然練ってない、工夫のない文章です。え?それはいつものこと?・・・・そうでもないデスヨ、ソウデモ・・・・。
この春から、都内の十条にある「ヴイ街なか」プロジェクトに参加している。「ヴイ街なか」ってナニ?という方はこちら・・・・。 と思ったら・・・。 ない。HPが、ない。 ・・・・・。 ----ガサゴソ----(資料を探す音) おっほん、HPがないので不肖私が代弁…
(つづき) 以上に分析してきたような諸要素間の機能的な連鎖・網状組織は、空間的に見られた諸分節と生成の時間から見られた諸分節とが異なるという特性を持つ。空間的に識別される或る色塊は、タッチとは独立に考えることができ、したがってタッチそのもの…
以前、私は当ブログにおいて、岡崎乾二郎の絵画作品を分析すると予告しておきながら、結局のところ断念してしまった。なぜかと言えば、その分析に長大な時間と膨大な労力を必要とすることが、作品分析を始めてすぐに明白になったからだ。二、三週間ほど形に…